推定無罪はどこいった?
和歌山のカレー事件が決着した。犯人とされる被告の死刑が確定した。
死刑制度それ自体について、あってはならないとする立場なんだが、その是非をいう前に、罪状否認、状況証拠のみ、動機不解明のまま死刑判決というのは、なんとも司法の見識を疑わざるを得ない。裁判員制度を目前にして、迅速審理に、はやった結果のように思えてならない。だとしたら、裁判とは生身の人間の人生をいじることといういちばん大事な心得を忘れ去っていることになる。
この事件によって命を奪われた方のご遺族が、犯人へ強い憎悪を示されるのは当然のことと思う。が、その憎悪は真犯人に対してのものなのであって、検察や裁判所がこいつが犯人と決めた者を犯人と思い込まされ、憎まされるということに、一片の不信を抱いていそうにないのも、不気味に感じるところだ。
もし、もしも後日になって、本当の犯人は別人であったということになったとしたら、被告の死刑を望み、その判決確定を喜んだご遺族は、いかほどのものを背負うことになるのだろうか。当然何も罪を犯しているわけではないのだから、刑罰に問われることはなかろう。だが、だからこそ、その贖罪感は逃れようのないものとなり、愛する者を失ったときに並ぶ悲哀が再びということになる。しかも、そのときには責める相手さえなくなるのだ。
どの裁判においても、誤りがゆるされるケースなどあるわけではないが、死刑が求刑されている事案については、そこに求められる慎重さは他と比肩できるレベルを明らかに超えると認識すべきだ。
本件について、私は被告が無罪であるという心象を持っているわけではなく、したがって被告を弁護するような意図はない。しかしながら、被告をクロであると断定し、死刑を判決しようとする根拠が、あまりにも稚拙すぎるということを言いたいだけだ。こんな過程を是認してしまえば、誰だって気に入らないやつは死刑台へ送り込むことができるようになってしまうではないか。
おそらく被告は、地域社会において困った人物だったんだろうと思う。あんなやついなくなればいいんだと、みんなに思われていたんだろうなぁ。世間を敵に回すと、死刑で抹殺されるという事例になる。その点で、前回書いた北のミサイル騒ぎと同質である。
不都合な者、少数意見の存在を軽んじる風潮。高齢化はしたかもしれないが、それに連れて成熟したとはとてもいえない社会ではないか。作物が窒素・リン酸・カリに加えて、微量要素がなくてはおいしく育たないように、マイノリティは健全な民主的社会の微量要素として、欠いてはならない存在であることを、今こそ理解しなければならない。
冤罪の可能性を残していれば、それはまぎれもなく、司法の私刑である。


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