April 22, 2009

推定無罪はどこいった?

和歌山のカレー事件が決着した。犯人とされる被告の死刑が確定した。

死刑制度それ自体について、あってはならないとする立場なんだが、その是非をいう前に、罪状否認、状況証拠のみ、動機不解明のまま死刑判決というのは、なんとも司法の見識を疑わざるを得ない。裁判員制度を目前にして、迅速審理に、はやった結果のように思えてならない。だとしたら、裁判とは生身の人間の人生をいじることといういちばん大事な心得を忘れ去っていることになる。

この事件によって命を奪われた方のご遺族が、犯人へ強い憎悪を示されるのは当然のことと思う。が、その憎悪は真犯人に対してのものなのであって、検察や裁判所がこいつが犯人と決めた者を犯人と思い込まされ、憎まされるということに、一片の不信を抱いていそうにないのも、不気味に感じるところだ。

もし、もしも後日になって、本当の犯人は別人であったということになったとしたら、被告の死刑を望み、その判決確定を喜んだご遺族は、いかほどのものを背負うことになるのだろうか。当然何も罪を犯しているわけではないのだから、刑罰に問われることはなかろう。だが、だからこそ、その贖罪感は逃れようのないものとなり、愛する者を失ったときに並ぶ悲哀が再びということになる。しかも、そのときには責める相手さえなくなるのだ。

どの裁判においても、誤りがゆるされるケースなどあるわけではないが、死刑が求刑されている事案については、そこに求められる慎重さは他と比肩できるレベルを明らかに超えると認識すべきだ。

本件について、私は被告が無罪であるという心象を持っているわけではなく、したがって被告を弁護するような意図はない。しかしながら、被告をクロであると断定し、死刑を判決しようとする根拠が、あまりにも稚拙すぎるということを言いたいだけだ。こんな過程を是認してしまえば、誰だって気に入らないやつは死刑台へ送り込むことができるようになってしまうではないか。

おそらく被告は、地域社会において困った人物だったんだろうと思う。あんなやついなくなればいいんだと、みんなに思われていたんだろうなぁ。世間を敵に回すと、死刑で抹殺されるという事例になる。その点で、前回書いた北のミサイル騒ぎと同質である。

不都合な者、少数意見の存在を軽んじる風潮。高齢化はしたかもしれないが、それに連れて成熟したとはとてもいえない社会ではないか。作物が窒素・リン酸・カリに加えて、微量要素がなくてはおいしく育たないように、マイノリティは健全な民主的社会の微量要素として、欠いてはならない存在であることを、今こそ理解しなければならない。

冤罪の可能性を残していれば、それはまぎれもなく、司法の私刑である。

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April 13, 2009

ミサイル騒ぎ

ここしばらく彼の共和国が人工衛星を打ち上げるとして、それに世界が、とりわけ日本が弾道ミサイル発射と神経を尖らせた。

別にあの将軍様を弁護するつもりもないが、人工衛星打ち上げといっているのに、メディアや政府はミサイルと断じてしまう。まあ、これまでの素行の悪さを見れば、それも仕方ないと思えないこともないんだが、でもこれっていじめじゃないの?

発射までに何日もかかるロケットに爆弾くくりつけて、隣国の都市を破壊することで、どう事態が展開していくかが全く分からないような、そこまでのアホではないだろう。今回のは、本当に人工衛星の打ち上げか、あるいはロケットの発射実験と考えるのが、妥当なところと察するのだが。そりゃ、そのどちらにしても、弾道ミサイル開発のデータ取りであるのだとは思うので、周りが騒ぐのも理のないことではないとも思う。

だがしかし、他の列強先進国が核兵器を手放さず、好きなだけロケットを打ち上げまくっている状況で、北朝鮮のロケット発射をどれだけ非難できるのか。やはり強き者の驕りやいじめとしか見えない。少なくともフェアではない。

別の見方として、アメリカに売りつけられたミサイル防衛システムを、使ってみたかったということもあるんではないのか。衆目のない海上での訓練では物足りなくて、ランチャー担いで街中を駆け抜けたいのか。「どうだ、俺の一物すごいだろ」なんて。

国際社会は割合さめた反応に対し、日本は報復だとか制裁とがなり立てている、この事件の顛末を見れば、むしろこっちの見方が現実的にも感じられてくる。

仮にこれが図星だったとしても、本当にぶっ放すつもりもなかったんだろうと思う。だって迎撃しようとして全て外しちまった日にゃ、大恥者ではないか。誰かがいってた。撃たれたピストルの弾をピストルで撃ち落とそうとするようなものだって。星飛雄馬でさえ、野球のボールだったというのに。ということは、アメリカ自身が、ゴーサインを出さなかったということも充分考えられる。自衛隊が恥をかくだけではすまないということだ。

もうすっかり信頼関係が吹き飛んでしまっているんだから、建設的な有効手段なぞあるわけもなかろうが、それでもこれ以上追い込むようなまねは、最低の対処といわざるを得ないのではないだろうか。

ぐれちゃった少年のいうことを聞いてやらず、花火遊びといっているのを爆弾テロと断罪してしまう。これじゃ、更正の道を爆破しているのと同じじゃないのかね。

あげてしまった拳をどうやって降ろさせるか。ここに知恵を絞るための予算なら、いくらつぎ込んでもらっても惜しくはないと思うのだが。借金増やして、ばらまくしか能のない政府では、そんな事言っても通じるわけもないか。

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April 04, 2009

池澤夏樹 3編

池澤夏樹という作家、よく雑誌のコラムなんかで目にはしていたので、名前は知っていた。つまり短文しか読んだことがなかったので、印象といえるようなものは、僕の中にはまったく残ってはいなかった。

で、あるとき、1冊の池澤夏樹が舞い込んできた。頼んでもいないのに、貸してやる、読めって。「光の指で触れよ」。分厚いハードカバー。苦手なボリューム。まあ、せっかくやから、トイレの入り口に置いといて、毎朝の読書の時間にでもぼちぼち取り掛かるか。

この作品は、風力発電を開発するエンジニア・林太郎と、環境保護活動に熱心な妻・アユミ、その夫婦一家のお話。舞台は日本だけでなく、ネパールやスコットランドなどに渡り、ストーリーの展開もテンポよく、どんどん読まされていく感じ。

またこの小説には前編があって、「すばらしい新世界」という。途中で、どうしてもこのお話の始まる前が知りたくなって、こっちにも手を出す。文庫本を注文。

後編である「光の指で・・・」は、第二子のキノコちゃんの存在がキーになっているが、前編の「すばらしい・・・」では、上の森介の大冒険が核になっている。あ、ネパールが舞台になるのは、この前編のほうか。ちょっと頭の中が混乱している。

とにかく、この2編で、池澤夏樹という作家への興味が確立された感じ。作中人物の息づかいや、立ち居振る舞いの描写が心地よい。

小説としては長編で、綴じられたものの厚みを見るとひるみそうになるが、読み始めるとどんどん読まされてしまう。

そんな強い印象があったからだろうが、図書館で偶然に3冊目の池澤を、なんとなく手にとってしまった。「キップをなくして」。先の2編よりは短い。どういうお話なんだろうとまったく想像がつかないまま、借りてきて読み始めてみる。

自分の切手のコレクションを完成させるべく、切手屋さんに向かう途中から物語が始まる。主人公イタルは、電車から降りて改札を出ようとするそのとき、キップをなくしてしまっていることに気がつく。「キップをなくした子は、駅から出られないのよ」といわれ、迎えに来た(!?)フタバコちゃんに連れられて、駅構内のとある部屋へ。そこは、駅の子の詰所。

出だしの数十ページまで、ストーリーの全体像がぜんぜんつかめないまま場面が展開していくが、フラストレーションがたまっていく感じはしない。これも、池澤の筆力なのかとまた改めて感心する。

筋をばらしてしまっては面白くないので、これ以上触れないが、最後は安心感と達成感と、小説のなかを飛び回る少年たちと一緒に、自分も少しやさしくなれたようなさわやかな幻想に浸ることもできた。そして、これはファンタジーだったのだとようやく気づく。

どの作品も、池澤が伝えたいこと(世界)というのが、組み込まれているようには感じるが、それをいちいち言語化するのは野暮な気さえする。言語化がそぐわない世界観を、伝えようとしてくれているのかもしれない。

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March 25, 2009

スポーツ考再び

以前に、オリンピックは戦争であると述べた。オリンピックだけでなく、ついこの間世間が騒いでいたWBCも、また高校野球についても然りだ。今もその認識は変わってはいないし、折に触れてそういう話も随所でするようになった。

そのときに、「いや、そんなことはない」という反論を受けることも珍しくはない。そうしたときは、いつも議論が深まることなく物別れに終わるという展開に終始してしまう。

どうして議論として積み上げていくことができないんだろうか。

議論が発展しないとき、これまでの経験によれば、どちらか片方、あるいは両者に盲目の信仰がある場合が少なくない。ひょっとしたら、僕の側に自覚できていない信仰があるんじゃないかと思うこともある。が、それはまだ見つかっていない。

それで、オリンピックが戦争であるか否かについて、意見が対立したときを冷静に思い返してみると、僕は現実、事実に基づいて認識を導いているのに対し、反対意見氏のほとんどは、自らのスポーツ観に立脚しているように思われる。氏によればおそらくは、スポーツとは人間形成のツールであるとの認識なんだろう。なんでも一所懸命にやる姿は美しい。ルールを守り、チームの一員としての自覚を培う、いわゆる社会性を身につけることに貢献するものといいたいのではないかと思う。

確かにそういう面があることは否定しない。が、それは同時に、そこを強調していかないと、ドーピングや八百長などがすぐにはびこってしまう質のものであることをも、証明していることにはならないのだろうか。そういう例が、枚挙にいとまがないのは、論を待たないだろう。

また、反対意見氏個人の認識について論じるつもりが、こちらにはない。それはその人が、勝手に思っていればいいのであって、僕には関係がない。僕はあくまでも、競技スポーツの世界において、ドーピングや八百長、自分の技を磨くよりも相手を蹴落とす方策を練ることに執心するそのことが、特別な例外として現れてくる事件ではなく、必然として起こる日常であるといっているのだ。

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March 05, 2009

高速千円の愚策

ほんまに、日本国は終わってる。いよいよ、考えもなくばらまかれる、定額給付金。カネの使い方も知らないんだから。

だがしかし、定額給付金は、ただ愚かなだけ。次に控えている高速道路1000円均一は、効果がないだけでなく、無視できない弊害が予想される。

東京と大阪の近郊を除く高速道路の休日料金が、距離に関係なく1000円ぽっきりになるという。一体何を考えているのか。

いわゆるタイムサービスの一種になるわけで、当然のことながら対象となる乗用車が、休日には高速に殺到することになる。1000円の間により遠くへいこうとするはずである。

どうなるか。

休憩もろくすっぽ取らずに、がんがん飛ばすアホがいっぱい湧いて出てくることになる。事故で車が壊れたら、需要が伸びるなんてことにもならない。車と一緒に人も壊れるんだから。

あぁ、考えただけでめまいがする。休日は、高速道路は鬼門となる。

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February 18, 2009

世界同時不況という認識

消費の冷え込みを理由に、生産調整では飽き足らず、工場閉鎖や期間工のレイオフが席巻している。マスメディアはじめ御用学者先生たちは、100年に一度の世界同時不況と大合唱。

不況というのは、モノ(カネ)の流れが一時的に悪くなる状況のことで、人の体でいえば、しもやけのような病なんだと思う。しもやけならば、患部を暖めもんでやることで、快方に向かうはずだ。春になれば、自然と治るものでもある。

だがしかし、辺見庸が「パンデミック」という言葉をあてる現在の状況は、不況などという一時的なものなどではない。貨幣経済システムの崩壊の始まりと見るべきなんだと思う。

これまでの不況は、その前に好況があり、その揺り返しとして訪れるものであった。マスコミのいっていることを鵜呑みにすれば、空前の好景気の後の世界同時不況ということになるのだが、そもそもそんな好景気などというものがあったのか、甚だ疑問だ。単に貧乏人が搾り取られて金持ちがさらに肥えた、格差が拡大していっただけなのに、景気が拡大しているなどと見間違っていただけではなかったか。景況を測る物差しが、間違っているのだ。

一部の連中が、バカなマネーゲームに興じていただけのことなのに。その果てに、そいつらは大やけどをした。そして、のたうち回って火の粉をそこいら中に振りまいた。そのおかげで、貧乏人たちはまる焦げになった。

カネというのは、他のものと違い、唯一人間が作ったものだ。カネは概念であり、紙幣やコインは、その概念を感覚的に扱えるように造られた、いわゆる偶像である。すなわち、カネというものが実存することはない。

概念ということでは、カネ以外にも概念は存在する。本来の概念は、扱われるものではなく、語られるものだ。ところが、カネだけは、概念であるにも関わらず、扱われている。それどころか駆使されている。

大昔は、そのカネは必要な物資を手に入れるための交換ツールであった。腐らず、等しく誰にとっても等価値だったので、とても便利なツールだった。便利すぎたのか、いつの間にかそこに新しい役割を背負わされていく。カネと商品を交換するのに飽き足らず、カネ自身を商品として扱いはじめるにいたり、カネが悪魔化していった。

カネは、食うこともできず、そこに住むことも、着ることさえできないのに、カネがなければ生きていけないと思い込む人々がどんどん増えていき、今では世界中のほとんどの人がそんな風に思い込んでいる。まさに、悪魔そのものである。

この悪魔を現出させたのは、他ならぬ我々人類なのだ。本来の身分は、ペットか召使いのはずで、まさに飼い犬に手を噛まれているのが、今日の状況であることを、正しく認識する必要がまずある。

そのカネを中心としたシステムが、今まさに崩壊を始めたということになるだろう。したがって、オカルティックともいえるカネ崇拝の酩酊から醒めない限り、本質的に景気が持ち直すなどということは、考えられない。

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January 22, 2009

個人の境界について

パーソナリティの境界について、幸か不幸かちょっとばかり考える機会を得た。

パーソナリティの境界。つまり、あなた(あるいは世間)とわたしの境い目。

人と話し合っていると、意見が食い違うことがよくある。むしろ、ぴったり合うなどということのほうが稀である。

だがその一方で、自分が、このことだけは正しいと固く信じていることに、そうでない別の見解を持つ存在を認めるのが困難になる例も珍しくはなく、意見の違いが人格の対立になってしまうことも枚挙にいとまがないほどだ。これが、戦争の種や苗となるわけだ。

こういった意見の対立が、人格の対立、さらには相手存在の不認定に発展していくのには、この境界が適切な位置ではっきりと引かれていないことから来ているいう見方ができるのではないだろうか。

「私が正しいと信じていることは、誰に対しても普遍的に正しい」。このことはその本人には確信としてあるのだろうし、僕自身もそのように確信していることは間違いなくある。いや、人一倍強いのかもしれない。

しかし、それと同時に知っておかなければならないのは、そのように強く思っているのは、とりもなおさず私自身なのであって、それが本当に普遍的なものであるのかどうかが、普遍的に確かめられたわけではない、ということだ。

ここで普遍的と表現したが、ご存知のとおり多数決という意味ではない。どれほど多くの人が「そうだ」と思ったとしても、そのことで普遍性が担保されたことにはならない。ここのところは、常に肝に銘じておかなければ、大きな間違いを犯すことにもなりかねない。

では、普遍的であるといえるためには、どうでなければならないのか。

賛成者の数ではないのなら、何がポイントになるのかというと、次のような点なんじゃないかと、今は思っている。

論理がはっきりしていること。筋がきちんと途切れなく通っていて、その話の中に飛躍がないこと。けったいな前提が置かれていないこと。そして、持続可能であること。

ほかにも、このことについてはまだ考えられると思うのだが、今回はこの普遍性ではなくて、境界について考察をしたいので、いったん話を元に戻すことにする。

自分が普遍的だと思っていることに、そういえるだけの根拠はないということを知るのが非常に重要になってくる。自分が信じていること以外にも、世間で普遍性があるとされているものもたくさんあるのだが、あくまでも「あるとされている」の域を出るものではないということだ。科学の歴史を見るにつけ、ずっとこの手の更新が繰り返されてきていることから証明済みだろう。

そうであるならば、他人が別の見解を持っていたとしても、そのことには問題はないはずである。「僕はこんな風に考えるが、君は違うんだね」と、見解を譲歩せずとも、相手を認めることは充分に可能だ。

これが、パーソナリティの境界があいまいな場合は、異論に対して異論のまま尊重するということが困難になる。

賛成と反対(好きか嫌いか)と、善と悪。まったく次元の違う概念。交じり合うこともなく、矛盾することもない。賛成か反対か、あるいは好きか嫌いか、これはその人が好きに語ればいいのだ。だが、何が善で、何が悪なのか、もし断定口調で語られたとしても、(数あるうちの)ひとつの意見に変わりはないわけで、受け取る側は、決して勘違いしてはいけない質のものである。さらに、善悪などというものは、視点をどこに据えるかによって、変わりうる相対的なものであるのを思い出せば、なおさらのことだ。

戦場に赴くジャーナリストが、直面させられる問い。「命が脅かされている人を目の前にして、救助に優先してシャッターを切るということが、果たして許されるのか」、ほとんどの場合、シャッターチャンスは救助の前にしかないのである。この贖罪感に駆られないような人なら、むしろジャーナリストとしての資質を問いたくなる気もするが、そのときどうすることが正しい行いなのかという議論を避けて、それでもなおジャーナリストとしての活動を遂行するには、この自分の境界が、あるレベル以上のところではっきりさせられていないと、成り立たなくなるということ。仕事が成り立たないだけでなく、その人の人格自体が、大きなダメージを受けることになりかねない。

聞くところによれば、心療内科の医師やカウンセラーが、欝を患うというケースも少なくないそうだ。患者と話し合ううちに、欝をもらい受けてしまうらしい。

それでいて、境界をはっきりさせるとは、単に水臭い人になるということではないのだと思う。水臭い人は、境界があいまいなまま、心を閉ざしてしまっている。言い換えれば、己自身を欺いている人ともいえるのかもしれない。

むしろ、境界がはっきりしていてこそ、他人に心寄せたり、共感することが健康的にできるのではないだろうか。

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December 13, 2008

仕事の目的再考

近頃、一気に不景気風が吹き荒れだした感がある。大企業が破綻したり、業績悪化を理由に工場の閉鎖や大量解雇が、ニュースネタになる。

会社の業績見通しが悪くなって、設備投資がひかえられるのは理解できるのだが、人員の削減が不景気対策の手法として使われることに、疑問を感じざるを得ない。

会社は何をするところか。大きなくくりでいえば、社会貢献をするところだ。社会の役に立つものを作ったり、サービスを提供する。そうして喜ばれた分の対価をいただいて、それを自分たちの糧とする。糧を得るために、社会貢献をするということでもいいだろう。

で、世の中の景気が陰って、ものの動きが悪くなると、会社としては糧を得るのが難しくなる。そこでどうするのか。

不景気の対策とは、会社があり続けられる道を模索するということ。人員削減とは、経営者でない従業員の首を切るということ。不景気対策として人員削減をするということは、従業員の首を切ることによって、会社の延命を図るということに他ならない。もっと端的に言うと、会社の延命というのは、経営者の身分保障ということになる。

整理しよう。不景気対策としての人員削減とは、従業員の首を切ることによって、経営者の身分を保障しようとすること。従業員が、解雇されるということは、糧を失うことであって、殺されることである。つまり、経営者は、従業員を殺すことによって、己が栄え続けようとするということになる。もはや、社会正義の逸脱といっても過言とは思わない。

人が死んで、会社が生き残ることに何の意味があるのか。

今もう一度、仕事について、大きなところからながめる必要があるのではないのか。

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December 08, 2008

事故は不可避か?

もうしばらく前のことになるが、高速道路に、イノシシが飛び出してきて、それが元となって大事故になったという新聞記事を読んだ。

一緒に読んだ細君の話。「こんなん飛び出してきたら、よけられへんやんなぁ」と、この事故は不可避なものだったとの見解のようだった。確かに、それはその通りだったんだろうと思う。

が、しかし、僕としてはすっきりしない。何がすっきりしないのかというと、「不可避な事故がある」という見方だ。

確かに、突然目の前に飛び出してきたイノシシを発見したところから考え始めるのなら、不可避であるのだろう。それは、不可避になってしまったところから考え始めるのだから、不可避という結論しかでてこないことになる。

この件の事故が、不可避であったかどうか、このことを検討してみても、我々は時間をさかのぼる能力を持ち得ていない今日、切ないだけで大きな意味を見出すことはできない。今後の小手先の教訓をひねり出すのが、せいぜいのところだろう。

僕がいいたいのは、ちょっと違っていて、不可避な事故はあるのだという前提をおくことが、そもそも妥当なのか。別の言い方をすれば、そういう前提をおくことによって、何の役に立つのかということ。人生はそんなもんさと、分け知り顔で、無気力になることのいい分けに使える程度のことではないのか。

先ほどの事故の話に戻って考え直してみると、不可避との見解の要旨は、高速道路上でイノシシを発見してから、実際に衝突するまでの距離および時間が、発見・認知・判断・行動という一連の回避行動には不足していたということだ。

僕が重要視するのは、大前提として、事故というのは、起こるはずのない事象であるとの認識である。事故を起こしたいと願っているような輩は、一人としていない。イノシシでさえ、願ってはいないはずだ。もし、そのようなことが起こることを望む者がいてその通り事柄が起こったとすれば、それは既に事故ではなく犯罪なのであって、検討するべきテーマそのものが大きく違ってくることになる。

そういった事故というものを、減らすのではなく、なくしてしまうにはと考えた時、ここから学べるものは何か?

イノシシに限らず、障害物の発見が、その回避行動に間に合うタイミングでできないのだろうかということ。

車の運転者には、どのレーンを走るか、どの速度で走るかなど、走行に関するほとんど一切といえるほどの決裁権がゆだねられている。周りの事情を斟酌しながらであるのはいうまでもないが、判断し、行動に移すのは運転者自身でしかない。

そこから考えれば、これは単に早期発見ができるかどうかという問題ではなく、実際に発見できるタイミングで、早期発見といえるような走り方がどのようなものであるのか?という問いかけに変換することができるのではないだろうか。

これは単に、だからスピードを控えめにしろという平坦な結論に結びつけることではない。運転者が決裁権を適切に行使するために必要な情報は何か、それはどこにあるのか。速度と前車との距離の関係一つ取り上げても、車種や後続車との距離、路面状況などを考慮に入れる必要もあるだろうし、もっと広くその道路の車の密度によっても補正されるべき要素だ。こうしてどの要素が考慮されなければならないのかを、全て挙げだしたらキリがなくなるほど膨大な数になる。また、その状況において、重要になる要素も変わってくる。さらにいえば、要素になる事柄自体も変化していくことだってあり得る。

そこで考えるべきは、様々な状況に応じて、それらの要素を取捨選択する知識を得ようとしても切りがないので、その時々でどの要素をどう考慮すればいいのかを考えつく知恵を磨いていきたいということになる。

既に起こってしまった事故の過失責任の所在を探るというような、不毛な話ではなく、そこから学び取れることは何か、さらにはどうしたらそのように学び取る力を養っていけるのか、そこのところを究めていきたいものだ。

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October 19, 2008

学校で学ぶもの

学校では、何を学ぶのか。
学校で教えられることは、学校を出てからの役には立たない。
本当だろうか。
何を学ぶところかなのか、そこの理解を間違っていると、そんな風にしか思えないのかもしれない。

数学から、何を学ぶのか。
計算の練習をたくさんする。いろいろな公式を覚える。統計や確率のことを覚える。
それらのこと自体について、特により高学年でのそれについて、社会に出てから役に立つ場面はそれほどあるのか。
そうじゃない。
数学の授業から学ぶべきものは、数という無感情のものに対する扱い方であり、捉え方。
大小の感覚。
つまり、順序立ててものごとを解きほぐしていくこと。

国語から、何を学ぶのか。
漢字。名作文学。
そうじゃない。
語感を磨くということ。
深く思索するとき、頭の中で言語を使って考える。このときに役に立つ言語力を養う。すなわち、母語。

社会から、何を学ぶのか。
各国の人口や、総生産。各地の名産に地場産業。
そうじゃない。
夫々に、得手不得手があるということ、それ自体の存在を知る。
自分が全てしなくても、くらしが成り立っているということの理を知る。
つまり、他者の存在を知る。

理科から、何を学ぶのか。
植物の観察。動物の体の仕組み。
そうじゃない。
ものには、成り立ちがあるということ。
人間が、何を利用して、何に助けられて、生きながらえているのか。
身の回りの豊かさを知る。
つまり、人間は、地球の居候であることを知る。
人間の知能が、現実を包含することはないということを知る。

英語から、何を学ぶのか。
英単語。文法。
そうじゃない。
そもそも、英語をはじめとする外国語を学校で取り上げることについて、それらを「学問」であると、勘違いしてはいないか?
外国語は、学問ではない。
未知の文化があることを知る。未知のものに出会った時の、処し方を身につける。
恥をかく練習。

学校で、何を学ぶのか。
人とかかわり合うこと。助けられること。助けること。
思い通りにならないことを受け入れる練習。理不尽への訓練。
叱られる練習。失敗をするところ。
人生の、練習の場。

だから、文学者にも数学や理科は必要だし、科学者にも国語や社会が必要なのだ。

それらを学ぶために、様々な切り口が用意されるのであって、その過程で用意される材料は、あなたが卒業したときには、古くなって役には立たないかもしれない。そんなものを、後生大事に覚えておくことには、意味はないのだ。

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