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April 20, 2008

覚悟のつくり方

今回は覚悟について考えてみたい。

この人と決めて結婚しようとするとき、会社を辞めて起業しようとするとき、そのほかにも人生の転換点になるような何か大きな事柄を決断しようとするとき、人は覚悟を決める必要に迫られる。また、覚悟なく重大な事柄を決めたりすると、後で悔いることになることもある。

となると覚悟とは、己を言い聞かせるためのツール、将来後悔しないための予防線、あるいは心の準備とでもいえるだろうか。

では、覚悟を決めるときに、人はいったい何をするのだろうか。すなわち、己を言い聞かせられて、予防線を張れて、心の準備を整えるのには、どういうことをすれば有効だろうか。

また、覚悟が試されるときというのは、想定外の出来事に出会ったときだろう。となれば、覚悟を決めようとするとき、まず最初にすることといえば、想像力を駆使してあらゆることを想定しようとする。要するに、想定外な要素を根絶やしにしようとする。それができれば、そこから先どんな場面になってもあわてることなく、決心した通りわが道を行くことができるというわけだ。

だがご存知のとおり、世間はそれほど甘くない。いろいろ起こるであろうことを思い起こし、こうなったときはああして、あんなことが起こったらこう対処してと、よし、これで万全と覚悟を決めて事に及んでも、こんなはずではなかったと、やっぱり考えていなかったことが起こる。映画の中のアクションヒーローにはなれないのだ。

では、覚悟を決めても無駄なのか。いや、覚悟するということに意味がないのではなく、覚悟のしかたに間違いや、不足があるということだ。ロールプレイングゲームのように、すべての展開を想定しようというアプローチは、やはり現実的ではない。世の中何が起こるかわからない。その中で後悔したりあわてたりしないようにするには、いったい何を用意すればいいというのだろう。

往々にしてあわてたときというのは、現状の把握もできていないものだ。これは、思考が停止してしまっているということ。人間どんなときもあわてて徳はないとは分かっているはずだが、そんないつもかも冷静でいられるわけでない。頭の中が真っ白になることが不可避なこともある。しかしこうもいうことができる。そんなあわてた状態というのは、そうそういつまでも長続きするものでもない。要は、この真っ白期間をどれだけ短くできるかだ。このことを知っておくだけで、ずいぶんと違ってくるのではないだろうか。自分があわてたことをいち早く自覚することが、何よりも先ず重要で、自覚できたときには、先ずちょっとおいてみる。思考の再起動だ。その後は、目的の確認と現状の把握から取り掛かるべしである。地震が起こったときに、先ず最初にどういう声をかけるのが有効か。「落ち着け!」だそうだ。

文章で書いてしまえば、こんな感じになってしまうが、そもそもこれは人にとって永遠のテーマのひとつなので、この通りにできなくても、あわてることもあるまい。落ち着け、落ち着け。

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April 09, 2008

分かりにくい話

人と人とのコミュニケーション。話は、分かりやすいほうがいいのだろうか。「お前の話は、分かりにくい」と以前はよく言われたように思う。最近では歳をとって丸くなってきたのか、これは伝わらんなと思った相手・話題はさっさと触れないようにするようになったので、あまりいわれなくなってきてはいる。しかし、中身はまったく変わっていないはずだ。

話し手側が取り組むテーマとしての分かりやすさの追求というのは、否定されるものではないだろう。分かりやすくするためには、的がぶれることのない具体的な話題設定と、たとえ話を随所に入れるのが効果的であるように思う。

しかしここで改めて、この分かりやすいというのはどういうことなのだろうかと考えてみたい。聞き手が、分かったと思うときに、分かりやすかったということになる。だがこれは、あくまでも聞き手がどう感じたかということであって、話し手の論旨が正確に伝わっているのかどうかという点からは、僕の感じるところでは、あまり注意が払われているようには思えないのだ。いいたいことが伝わったかどうかと考えるとき、話し手のほうの問題としてきちんと伝わるような適切な表現ができていて、かつ、聞き手が妙な先入観を持ち込まずに真摯に耳を傾けたか、この二つがともにそろってはじめて伝わることが成就するはずである。まあ、それであってさえも、あやしいものだとは思うが。

話を少し戻して、聞き手が分かりやすいと思ったときというのは、難なく理解できた(と思う)ということであり、それはとりもなおさず聞き手がすでに持ち合わせていた知識や考え方に沿った内容であったということがあるのではないだろうか。また、イメージしやすかったということも、おそらくあるのだろう。話が具体的であれば、頭の中で状況を浮かべることが容易である。容易ではあるが、話し手、聞き手それぞれにその思い浮かべるものが同じとは限らない。だとすれば、違うものを思い浮かべながら、コミュニケーションしているつもりになっているといったこともありうるわけで、そうなると分かったつもりになっているだけで、ちぐはぐな理解に気づいていないことになる。つまり、お互い頭の中を覗き込んで確かめることができないという話。

そもそも、「わたし」とは別の存在である人の話を容易に理解できると思うこと自体に無理があると思うのだが、違うだろうか。旧知の間柄であってさえ、住んでいる世界は微妙に違うはずだし、当然価値観も異なっているはずだ。同じ日本語で会話をしていても、一つ一つの単語の定義はまったく同じとは言えない。そんな中で、ちょっと話しただけで理解できたと思うことがあったとしたら、それはとりもなおさず誤解をしていると考えるほうが、むしろ妥当なのではないだろうか。

だから思うのだ。分かりやすい話には気をつけろ。分かりにくいなと思ったときは、相手と自分のずれに気がついているわけで、大きな誤解を犯す危険性は少ないことになる。

言葉を聴こうとすると、分かりにくい話は取り付く島を見つけられない。だが、言葉を手がかりに、話し手の世界観、価値観をうかがっていけば、少なくとも何が理解できないでいるのかが見えてくる。その話題に固執していては、いつまでたっても難解なままだが、人格を汲み取る視点に立つことで、お互いの世界を広げていくことにもなっていくのだろう。

また別の言い方をすれば、分かりにくいというのは、お互いの間にフロンティアが残されているということでもある。そのフロンティアが見えているということ。何もかも分かってしまっては、人間関係はなんともつまらんものになるだろうし、ひょっとしたら広大なるフロンティアに気づかぬ井の中の蛙なのかもしれない。

さて、この話は分かりにくかっただろうか。「分かりやすかった」「まったく同感」などと思われるようなことがあったとしたら・・・あなたは、かなり危険な捉え方をしているのかもしれない。ゆめゆめご用心。

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