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January 22, 2009

個人の境界について

パーソナリティの境界について、幸か不幸かちょっとばかり考える機会を得た。

パーソナリティの境界。つまり、あなた(あるいは世間)とわたしの境い目。

人と話し合っていると、意見が食い違うことがよくある。むしろ、ぴったり合うなどということのほうが稀である。

だがその一方で、自分が、このことだけは正しいと固く信じていることに、そうでない別の見解を持つ存在を認めるのが困難になる例も珍しくはなく、意見の違いが人格の対立になってしまうことも枚挙にいとまがないほどだ。これが、戦争の種や苗となるわけだ。

こういった意見の対立が、人格の対立、さらには相手存在の不認定に発展していくのには、この境界が適切な位置ではっきりと引かれていないことから来ているいう見方ができるのではないだろうか。

「私が正しいと信じていることは、誰に対しても普遍的に正しい」。このことはその本人には確信としてあるのだろうし、僕自身もそのように確信していることは間違いなくある。いや、人一倍強いのかもしれない。

しかし、それと同時に知っておかなければならないのは、そのように強く思っているのは、とりもなおさず私自身なのであって、それが本当に普遍的なものであるのかどうかが、普遍的に確かめられたわけではない、ということだ。

ここで普遍的と表現したが、ご存知のとおり多数決という意味ではない。どれほど多くの人が「そうだ」と思ったとしても、そのことで普遍性が担保されたことにはならない。ここのところは、常に肝に銘じておかなければ、大きな間違いを犯すことにもなりかねない。

では、普遍的であるといえるためには、どうでなければならないのか。

賛成者の数ではないのなら、何がポイントになるのかというと、次のような点なんじゃないかと、今は思っている。

論理がはっきりしていること。筋がきちんと途切れなく通っていて、その話の中に飛躍がないこと。けったいな前提が置かれていないこと。そして、持続可能であること。

ほかにも、このことについてはまだ考えられると思うのだが、今回はこの普遍性ではなくて、境界について考察をしたいので、いったん話を元に戻すことにする。

自分が普遍的だと思っていることに、そういえるだけの根拠はないということを知るのが非常に重要になってくる。自分が信じていること以外にも、世間で普遍性があるとされているものもたくさんあるのだが、あくまでも「あるとされている」の域を出るものではないということだ。科学の歴史を見るにつけ、ずっとこの手の更新が繰り返されてきていることから証明済みだろう。

そうであるならば、他人が別の見解を持っていたとしても、そのことには問題はないはずである。「僕はこんな風に考えるが、君は違うんだね」と、見解を譲歩せずとも、相手を認めることは充分に可能だ。

これが、パーソナリティの境界があいまいな場合は、異論に対して異論のまま尊重するということが困難になる。

賛成と反対(好きか嫌いか)と、善と悪。まったく次元の違う概念。交じり合うこともなく、矛盾することもない。賛成か反対か、あるいは好きか嫌いか、これはその人が好きに語ればいいのだ。だが、何が善で、何が悪なのか、もし断定口調で語られたとしても、(数あるうちの)ひとつの意見に変わりはないわけで、受け取る側は、決して勘違いしてはいけない質のものである。さらに、善悪などというものは、視点をどこに据えるかによって、変わりうる相対的なものであるのを思い出せば、なおさらのことだ。

戦場に赴くジャーナリストが、直面させられる問い。「命が脅かされている人を目の前にして、救助に優先してシャッターを切るということが、果たして許されるのか」、ほとんどの場合、シャッターチャンスは救助の前にしかないのである。この贖罪感に駆られないような人なら、むしろジャーナリストとしての資質を問いたくなる気もするが、そのときどうすることが正しい行いなのかという議論を避けて、それでもなおジャーナリストとしての活動を遂行するには、この自分の境界が、あるレベル以上のところではっきりさせられていないと、成り立たなくなるということ。仕事が成り立たないだけでなく、その人の人格自体が、大きなダメージを受けることになりかねない。

聞くところによれば、心療内科の医師やカウンセラーが、欝を患うというケースも少なくないそうだ。患者と話し合ううちに、欝をもらい受けてしまうらしい。

それでいて、境界をはっきりさせるとは、単に水臭い人になるということではないのだと思う。水臭い人は、境界があいまいなまま、心を閉ざしてしまっている。言い換えれば、己自身を欺いている人ともいえるのかもしれない。

むしろ、境界がはっきりしていてこそ、他人に心寄せたり、共感することが健康的にできるのではないだろうか。

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